真っ暗な世界が広がっている。
上も下も判別できない。そもそもあるのかどうか分からない。地に足がついているのかどうかすら怪しい空間がそこにあった。
はそこにいた。
どこを見ても何もない。
手を上げてみる。手のひらを見つめながら握ったり開いたりを繰り返した。
今度は足を動かす。何の問題もない。
は歩き出した。
得られる情報は何も変わらないので正しく歩けているのかどうかは不明だが、とにかく歩みを進めた。
かくん、と足を踏み外したように重力を感じて、ああ、あそこには床があったのだと気が付いた。
結構な時間落下したように感じたのに着地した事には気が付かなかった。いつの間にか座り込んでいた。
今度は真っ白な床だ。真っ暗な空間に真っ白な円が広がっている。
触るとひやりとしていた。
立ち上がって周りを見る。相変わらず何もない。ただ白い円の中心に立っている事に気が付いた。
今度も同じように足を踏み出そうとして、留まった。
何故だかそこから動いてはいけないような気がしたのだ。それもまた、分からない根拠がそう告げていた。
「 」
誰かが名前を呼ぶ。
は知らないその名前に反応して、振り返った。振り返って首を傾げた。
どこかで聞いたことのある名前だった。よく知る名前だった。
再び名を呼ぶ声が聞こえる。歩み寄ろうとして、床を見た。
何故だかそこから動いてはいけないのだ。円の中心から、は出てはいけないと思った。
声が遠ざかる。はただそれを見送った。見えない声の主が遠ざかるのを感じていた。
真っ白な天井が視界に映っている。
は瞬きを繰り返した。
もそもそと体を起こす。ぐるりと見回すと天井だけではなく壁も布団も白一色だった。
独特のにおいがここを病院だと裏付けている。
どうしてこんな所で寝ていたのかと首を傾げた。そして思い出す。
学校帰り、夕香のお見舞いに向かっていた。修也とはあとで会う事になっていた。
それはあまり良くなかったのかもしれない。
階段から落ちたのだ。正しくは突き落とされた。
歩道橋を降りている時に突然後ろから強い力で押された。
は逃げる人を見なかったが、近くにいた人が目撃して警察に連絡したらしい。
ついで救急車も呼ばれそうになったのは全力で断った。大した怪我ではなかったし大事にしたくなかった。
落ちたその足で歩いて病院に向かった。もちろん目的地であったし、学校より近い位置にあったからだ。
病院で簡単に手当てをしてもらい、夕香の病室で椅子に腰かける。
なんだか疲れたなあとベッドの端に頭を乗せた。少しひやりとしたシーツが心地よくて、そうしているうちにどうやら眠ってしまったのだろう。
は起こしていた頭をもう一度シーツの海に沈めた。
しばらくすると軽い音を立てて扉が開かれた。
まだ微睡んでいたいと訴える思考を振り払い頭を起こす。見れば部活を終えた修也が立っていた。
「……おはよう修也くん」
「なんだ、寝てたのか」
「んと、ちょっとだけね」
先ほど目覚めてからは眠るというほど寝ていたわけではないが、記憶が定かでない以上寝ていたのかもしれない。
ぐっと伸びをして身体に酸素を巡らせる。いつまでも心地よい微睡の気分でいるとまた階段から落ちかねない。
どうもは階段との相性が悪いらしかった。
「どうしたんだその怪我」
「怪我?」
伸ばした腕を修也に掴まれる。
首を傾げた修也の顔を仰ぎ見た。
「ああ、これ。ここに来る途中歩道橋から落ちたの」
「……階段か」
「そう。階段」
呆れたように修也が溜息をついた。
修也は小さな頃より何度も階段から足を滑らせているを目撃している。
昔は泣きわめくレベルで動揺していたが今では溜息一つで片付けられてしまうレベルだ。
もっとも最近はあまり落ちることもなく、足を滑らせる程度どまりだったのだが。
「気を付けろ」
「うん、そうする」
「その返事も何度目だか」
気を付けていても落ちるものは仕方がない。
それに今回はの責任でもないように思う。説明すれば過剰に心配させるだけなのでしないが。
椅子を修也に譲るため立ち上がろうとしたの両肩に、背後から腕が降りてきてのしかかった。
頭の上に顎を乗せられ見上げる事も出来ない。そこでは修也が不機嫌なのだと気付いた。
肩の上に乗せられた腕に手のひらを重ねた。
「今日の練習、何かあった?」
「……河川敷で」
そこで修也は言い淀んだ。どうも言いたくないらしい。
その代わりなのか、ぎゅっと腕に抱きしめられた。正直な所、少し首が締まっていて苦しい。
「次の試合も必ず勝ってみせる」
何かしらの決意を固めた修也にはそうだね、と返した。
次へ
トップへ