八月の暑さは脅威だ。東京は暑い。
窓を開けていても送風機を使っていても、汗は滴り落ちるし髪の毛やプリントは肌に張り付く。
以前住んでいたところと比べれば、空気がいいとは決して言えないが虫はあまり入ってこない。
それが利点かどうかいまいち微妙だが問題というほどの事でもない。
しかし暑い。むしろ熱い。
そしてこの暑さの中、修也は私にしっかりとしがみついている。
「修也くん、暑くないの」
黙殺されると分かっていたが予想通り過ぎて溜息すらでてこない。
何か気がかりなことがあると、修也は昔から私の下を訪れる。
事あるごとに「ちゃん」と呼びかけ駆け寄る修也もこの時ばかりは無言だった。
私を手ごろなサイズのクッションか枕、もしくはぬいぐるみくらいに認識しているのかなんなのか。突然背後からがっちりとしがみついてくるのだ。
小さな頃は流石にどう対処すればいいのか分からず狼狽えもしたが、付き合いも十三年に上るとなんのことはない。
気が済むまで放っておくに限る。
ただ暑い。この時期は暑い。
冬場はいざ知らず、この気温の中くっつかれているとひっぺ剥がしたくなるのも仕方がないだろう。
さらに修也は基礎体温が私より高い。もう暑いとしか言いようがない。
課題が手につかない。それなりに抵抗すれば修也も離れるだろうがそれでは暑いし疲れる。
「修也くん私お手洗い行きたい」
渋々と修也が手を離す。見ると不服そうにしていた。
一息つく。これで離してくれなかったらどうしようかと思ったが杞憂にすんだ。
立ち上がって部屋の窓を閉める。エアコンの電源を入れた。プラス二度がいいんだっけ、とリモコンを操る。
節電とか自力で体温調節とか言っていられない。
部屋を出ると扉を閉めた。
大きく息を吐く。
修也の気が滅入っている理由は確実に夕香とサッカーだ。
気がかりなことはサッカーで解消してる修也にとってサッカーができない状況がまた気がかりを生んでいる。
サッカーをすればいいのだが夕香を気にしている今の修也にはまだそれは出来ない。
ようするに、落ち込むのをやめて新しい道を選んだことがストレスになっている。
多少なりとも先を検討するようになったのは良いことだと思うので、あとは時間とタイミングがものをいうだろう。
それまでは例年通りに修也の子守役をすることになる。別に嫌ではないから構わない。
宣言通りお手洗いに行き、ついでにキッチンに立ち寄って飲み物を用意する。
よく冷えているペットボトルをふたつ選んで自室に戻る。
扉を開けると冷気が舞って心地よかった。これは癖になるなあと部屋の扉を後ろ手に閉める。
ペットボトルのひとつを修也に手渡すつもりで伸ばした腕は掴まれた。
私の手からペットボトルを抜き取って、修也が床を指示した。どうもそこに座れということらしい。
指示された場所――先ほどまで私が座っていた場所に再び座らせるということは、まだ抱え込む気でいるのだ。
やれやれと思いながらもそこに腰を下ろす。
覆いかぶさるようにしっかりとしがみつかれるが、空調の効果で幾分もましだ。
これで課題に集中できる。
課題も残す所あとひとつとなった数学を解き進める。
どうせならとこの間数学の教本を最後まで読み進めたおかげか、思い出せないところは殆どない。
社会に出てから使いはしなかったが、一応数学3Cまで専攻していたのだ。中学校程度の数学なら、記憶の底から基本を引っ張り出せれば何のことはない。一度は履修したのだから。
ただその思い出す作業に手間取るのだということにはこの際目を瞑る。
あと、極端に多い計算ミスにも目を瞑る。足し算を間違えたりして修也に呆れられることはしょっちゅうだ。
「修也くん答え合わせしてくれる?」
。お前はどうしてこの単純な計算で間違えるんだ」
声をかけた瞬間に修也が解の一部を指差す。
明らかにプリントを見てから言った速度ではないその返事に苦笑する。見ていたならその時に声をかけて欲しかった。
シャープペンシルから赤ペンに持ち替えて、間違えたブロックに大きく斜線を引く。
矢印を引っ張って隣に再び計算式を書きなおした。
答えが出たところで首をひねる。修也は背後にいるので見えないが、雰囲気からしてきっと同じことを思っているだろう。
「……、どうして解が同じになるのか答えろ」
「うーん……」
先ほど間違えた計算で出した解と、新しく計算し出した解が同じだった。
間違えた部分は足し算なので、今出した答えが間違っているのか、先ほど出した間違った計算式の答えが間違っているのか、はたまたどちらも間違っているのか。このうちのどれかだとは思うのだが、さっぱり分からない。
もう一度計算しなおすの面倒だなあと溜息をついた。
木戸川清修の数学課題と雷門中の数学課題は当然だが内容が異なる。
全く同じ問題集なら修也の解答が正解なので、答え合わせには便利なのだが今年はそうもいかないのだ。
後ろから伸びてきた手が赤ペンをつかんで、脇に置いてあった広告の裏に計算式を書きこんでいく。計算用に裏の白い広告を持ってきて置いたのだ。
時折注釈を加えながら、計算を頭からしてくれる。
見ていれば理解はできるので必要ないと言えば必要ない注釈なのだが、無言よりずっといいので頷いている。
修也の出した解をプリントに書き込んでいく。それはつまり私の出した答えは結果としてどっちも間違っていたということだ。
ありがとうと少し間延びした喋りでお礼を言う。これで出題された課題はすべて終わった。ちなみに修也はだいぶ前に数学を終わらせていて、あとは古典が残っていると言っていた。
ぽすりと背後に凭れ掛る。呆れたように修也が笑った。




(どうしてか単純なところばかり間違えるんだよね、なんでだ)






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20140510/訂正