忘れていたのだ。
長い幸せな時間の中で、私は忘れていたのだ。
いや、今となっては本当に知っていたかどうかすら怪しい。
少なくとも、その話を聞くまでは私の中から消え失せていた事実であった。
学校から帰宅して瞬間に、お母さんから伝えられたこと。
その場に鞄なんて放り出して自室へと駆け込んだ。
ポケットに入れたままの携帯電話の電源を入れる。少しの間が空いて画面が光った。
普段は気にならない起動速度の遅さに苛々しながら、昨夜かけたダイヤルにコールする。
何度も何度もコール音だけが響き続ける。
通信センターにつながる度、掛け直しを続けて3回目に携帯電話を机に置いた。
そのままベッドに倒れる。
新しく買ったばかりの制服が皺になることなんて気にもならなかった。
「夕香ちゃん……」
思っていた以上にくぐもった声が零れた。
豪炎寺修也が中学一年生の時。
フットボールフロンティア、決勝戦のトーナメントは帝国学園と木戸川清修。
ちゃんと知っていたはずなのだ。
木戸川清修が敗退することも、夕香が交通事故に合うことも。
ちゃんと覚えていたら何か手が打てたかもしれない、なんてことを言うつもりはない。
私一人が物語の展開を変えられるなんて思っていない。
それでもそんなことを考えずにはいられなかった。
私にとって彼らは、かの友人が現を抜かすキャラクターじゃない。
彼らは幼馴染で、可愛い妹のようで、大切な家族の一員のような。
少なくとも私の中にいる彼らは平面上に作られた存在などではなかった。
大きく息を吐いて気持ちを落ち着ける。
大丈夫だ、夕香は死なない。ほんの少しの間、眠りにつくだけである。
今度は深呼吸に切り替えて、気持ちが落ち着くのを待つ。
涙を流すほどではないが、私は動揺している。
少し落ち着かなくては、物事を進めることはできない。
もそもそと体を起こして携帯電話に手を伸ばす。
掌に収めた携帯電話は相変わらず無音を貫き通している。
事実を知らなかったら、優勝したチームメイトと騒いでいて気付かないと考えたのだろうか。
送信履歴も最終着信も同じ名前、豪炎寺修也と書かれている。
昨日の夜に修也と、それから少しだけ夕香と喋った。
「明日の決勝、全力を尽くしてね」
「勿論。そうだ、夕香が話したいらしい」
修也はそう言って、興奮した様子の夕香に会話を交替した。
電話口の向こうで修也が慌てたように声をかけていた。夕香が内緒、と言っていたからきっと修也の傍を離れたのだろう。
「あのね、あしただね。ゆうかのミサンガ、切れちゃったらまたおそろい着けようね」
小さな声が楽しそうに音を紡いで、私はそうだね、と笑ったのだ。
お兄ちゃんには内緒の、私と夕香の秘密は今まだ健在である。
再び手元に電話が戻った修也が不思議そうにしている。
その時の私はとても幸せな気持ちでいたのだ。
こんな事件が起こることなどすっかり忘れていたのだ。
鳴らない携帯電話を再び机の上に置く。
伸ばした腕からオレンジ色がぽとりと落ちた。
(ミサンガ、切れちゃった)
次へ
トップへ