小学4年生の冬。
雪の降る日だった。降ったりやんだりを繰り返して雪は外を薄ら白く染め上げていた。
溶けたり凍ったりしている地面の雪に気を付けて、ノートの書い足しに出ていた時の事だった。
スリップしたのか寝ぼけていたのか、帰路にある信号を渡ろうとした私の目前を一台の車が滑り込んだ。
寸前のところで事故は回避できたのだが、雪解けの泥水をはねられて靴を筆頭に上着の裾までが汚れてしまった。
腹は立ったが命に比べれば大したことはないかと思い直し、指先で上着の裾をつまむ。傘をくるりと回して溜息をついた。
直後、ばたんと左側で音がして、顔を上げると明るい茶髪の女の子がいた。続いて黒い服に身を包んだ初老の男性が出てくる。
「ごめんなさい、怪我はないかしら」
焦ったように駆け寄ってくる少女が凍結した路面に足を滑らせる。
慌てて傘を手放し少女の手を掴んだ。購入したばかりのノートも一緒に宙に舞って、運悪く泥だまりの中に着地した音を聞く。
少女の身体が安定したことを確認して手から力を抜いた。
大きく息をつく。同じタイミングで少女も息を吐いた。しっかりと掴まれた手からも力が抜ける。
「大丈夫ですか」
「え、ええ」
恥ずかしそうに俯く少女に声をかける。
少女の顔が赤いのは寒さだけが理由ではないだろう。可愛らしい掌で両頬を覆う姿を見て肩の力を抜いた。
すぐ横に落ちた傘を拾い上げる。よかった、壊れた様子はない。
そしてノート、は新しく購入することを検討しよう。レジ袋からノートは飛び出して、紙袋で包装されているそれは多分使い物にならない。一応拾い上げはしたが、どこか近場のゴミ箱に行くことになるだろう。
ごめんね修也、ノート代また徴収するわ。
どうせなら一緒に買ってきてくれと頼んだ修也が悪いのよ。
などと明後日な方向に思考を飛ばす。
車と接触事故するところだったと言えばそんなに怒られないだろうか。あ、駄目だ。そっちの方を怒られる。
最近の修也は何かと口煩いのだ。3倍近く生きている相手に対して尊大な態度をとるようになったものだと溜息をついた。
「あの!」
さっきの少女が再び私の手を掴む。
すでに立ち去ったものと思っていた少女の存在に少なからず驚いた。
「わたし、雷門夏未といいます。助けていただいたお礼とさっきのお詫びをしたいのですが」
頬を赤らめたまま一息に言い放った少女に、何も考えず頷いてしまった。
悪い子ではないとすぐ分かったし、幼い頃の修也が頭よぎったのだ。
本当なら主要人物との関わりは避けるべきだったのかもしれない。
でもちょっと不器用で、心の優しい幼い子供のお願いは断れないのだった。
そして私は何とも居心地の悪い思いでソファに腰かけている。
汚れた服はどうもクリーニングに出していただけるようで、さらに洋服フルセットを渡されてしまった。
全力で断ったのだが、気が済まないのだと言いくるめられて、現在それを着ている。
もう明らかに次元が違うレベルの服だ。着心地がよろしすぎる。
今まででこんなにいい服を着たことはない。
もちろん、修也の幼馴染の私としての経験ではなく、私全体を通した経験の話だ。
さらに言うなら、こんなに可愛い服など生まれてこの方着たことがない。
汚したらどうしようと無意味な緊張を持って紅茶を飲む。
さんの口に合うかしら」
「うん、おいしいよ。ありがとうね、夏未さん」
雷門さんと呼ぼうとして慌てて言い換えた。
話をしている間に同じ年だと暴露してしまい、それなら名前で、とお願いされたのだ。
笑いかけるとよかった、と嬉しそうに夏未も笑った。ああ、可愛い。この世界の女の子は冗談抜きに可愛い。
「でも夏未さん、見ず知らずの人を簡単に誘うのは危ないよ」
訪問してる本人が言うのも何かがおかしいが、最近は本当に物騒なのだ。
話しかけてきたのが可愛い女の子だから、相手も妙な気を起こすかもしれない。
そう言うと、ぱちぱちと長いまつ毛を瞬かせて夏未が首をかしげた。
さんこそ、見ず知らずの他人の車に簡単に乗り込んでは危なくてよ?」
「まあ、そうなんだけど。夏未さんなら大丈夫だなって思ったからさ」
「わ、わたしだって、誰彼と構わず呼ぶわけじゃないわ」
早口で夏未がそう言って、照れたように口をとがらせそっぽを向いてしまう。
ああ、この子と修也は本当によく似ている。同じ年頃の子供より聡明で、素直だ。
ふふ、と笑いをこぼすと赤らめた頬を膨らませてしまった。
「そうだ、さん。貴方のコート、白だったでしょう。泥が落ちないかもしれないの」
「え? ああ、大丈夫よ、気にしないで」
申し訳なさそうに視線を下げる夏未に首を振る。
もとよりそんなに気にしていなかったのだ。
というか命と上着を比重にかけて、大したことがないと判断した。変に気を使ってもらう必要はないのだ。
クリーニング、新しい洋服、おいしい紅茶。それと、夏未と仲良くなれたこと。どう考えても私の方が貰いすぎている。
そう伝えると、呆れたように夏未は笑った。
「最後のはお互い様じゃない」
夏未は今まで周りにいなかったタイプの少女だ。
子供のフリを疲れるほどしなくてもいい。気の置けない、とてもよい友人ができたような気がする。
時間を忘れて話し込んでしまったが、私はそもそもノートを買いに家を出たのだった。
現在の時刻を確認して、あわてて家に帰る準備をする。夏未がお詫びにと用意してくれた、新しいノートと財布の入った鞄しかないのだが。
「気軽に電話してちょうだいね」
値段なんて想像もつかない車に乗せてもらって、家の近くまで送ってもらう。
家の前まで送ろうかと言われたが、丁重にお断りしておいた。この車で帰宅は目立ちすぎる。
「色々とありがとう、夏未さん。またね」
夏未がひらひらと手を振る。
最後にお互いの携帯電話のアドレスを交換して、初めのようにばたん、と音を立てて車の扉は閉められた。
黒い車体が見えなくなるまでの数十秒を見送って、私はあと少しの帰路につくのだった。




(……お前、そんな恰好で出て行ったか?)(……ノーコメント)






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