木野には勉強をするといった。それは嘘ではないが真実ではない。勉強もするが、メインはそれではない。
おかしな夢に出てきたおかしな人物の言った言葉。それの真意を考えたかった。
どうしたい。かの人物はにそう問いかけた。なにをとも、なにがとも言わなかったが。
は誰もいない部室の、古びた椅子に腰かけた。隣には小さな模型がある。本を片手にボードを指で辿りながらはルールとは別のことを考えていた。
この際暫定人は暫定男として考える。彼が誰かだなんて考えても仕方がない。間違いなく言えるのはあの人物はがここにいる理由を知っているということだ。あまり接触は出来ないとも言っていた。言いたいことだけ言ってこちらの望む回答は一切与えないあの男の姿勢に腹が立つが、そんなことを思ったところでしょうがないのだろう。
どうしたい、とはいったいどういうことなのだろうか。正直なところがそう問われて思ったことは「帰りたい」というものだった。
帰りたい。自宅に、自分のいた世界に。こんな知り合いすらいなかった世界より、家に帰れば温かに迎えてくれる家族のいる世界に。控えめながらも自分の言うことを真摯に受け止めてくれる友人のいる世界に。
3年前は気に留めなくとも当たり前にあった世界が、今はない。
こちらに来てからの3年間をは冷静に過ごしてきたが、確かに動揺はあった。何をすればどうなるのかもわからない世界で、元の世界に戻る方法すらわからない毎日を過ごして。気付けば3年という月日が経っていた。
あの男はなぜこのタイミングでに接触してきたというのか。この世界で今までを過ごしてきたのだ。それなのになぜ、今更。
生きていく術は用意されていたというのに、どうして3年もたった今、あの男はに接触を計ったのだろうか。
コンコンと控えめな音が聞こえて意識を向けると、控えめとは言い難い声が続いた。
「すみませーん、誰かいますかー」
「はい」
無人ではないことを告げると、扉が鈍い音を立てて開かれた。陽光が差し込む隙間からひょこんと鈍色が覗き込んだ。チカチカと反射光が眩しくて、眼前に手をかざすと来客はあわてて中に入り扉を閉める。女の子だ。反射していたのはどうやらメガネのフレームらしい。
「えっと、サッカー部員の方ですか」
はきはきと言葉を発するその子に対して首を振る。途端に慌てた様子できょろきょろとあたりを見回し、挙句の果てには扉の横にかけられているサッカー部の札まで見に行く始末だ。
「ここはサッカー部だが私は部員じゃないんだ。間借りしている」
椅子を1脚部屋の中央付近に用意して、声をかける。間借りという表現が正しいかどうかはとりあえず除けて置いて。
部員に用事があるなら座って待つのも改めてくるのも好きにするといい、とは独り言のように発して、再び元の位置に腰かけた。そしてまた本を開く。
きょとんと瞬きを繰り返してその少女は椅子とを交互に眺める。数秒ののち「おじゃまします」と言ったのが聞こえた。
「部員が帰ってくるのに時間がかかるかもしれない。差支えないのなら私が伝言を受け付けるが」
待つと決めた少女が椅子に座ってからどのくらいの時間が過ぎただろう。は少女に尋ねた。
1時間は経過していないだろうが、なにせこの部室には時間をつぶすようなものはない。あるといえばあるのだが個人のものかサッカー関係のものだ。人のものは勝手に貸せないし、少女にサッカーボールを渡して時間をつぶせというのも何かがおかしい。
なぜがそんなことを気にしているのか。明白で単純に、視線が痛い。本を読んでいるくらいしか時間をつぶせるものがないのだろうが、そんなことのために視線を集中砲火されては本が読めない。気が散ってしまう。
しかし少女はの心中など知らないわけだから、笑顔で大丈夫ですよ、などと返してくる。
先ほどの考え事も人がいるとできない。本を読むにも視線が邪魔だ。本当に困った。
は再び本に目を落とす。集中しようとするが視線が気になり内容がなかなか頭に入ってこない。小さくため息をついた。
「あ、もしかして私、邪魔ですか」
少女は困った様子もなく、事実を確認するかのようにに尋ねる。
は少女に聞かれてしまったため息に少し後悔しながら首を緩く振って否定を唱えた。
「ただ視線を避けて欲しい。本に集中できない」
「すみません。ただちょっと暇で」
本当、いつ帰ってくるんでしょうね。あ、別に待つのが嫌ってわけじゃないんですよ、時間はありますし。私も時間つぶす何か持ってくればよかったなあ。どうせならデータベースの更新してもいいんだけど。でも持ってくるわけにもいかないしな。あ、ごめんなさい私喋りすぎましたか、え、あ、大丈夫ですか。ああよかった、新聞部の部長とかにいつも言われるんですよ、音無のくせにやかましいって。そういえば私まだ名乗ってませんでしたよね。1年の音無 春奈って言います。よろしくお願いしますね。あ、先輩のことは知ってます、有名ですもん。クールで知的だって私の友達が騒いでて。えー、そんな、否定しないでくださいよ。今日間近で喋ってみて本当にそうだと思ったんですよ。そうだ、先輩掲示板の記事は読みましたか。あれ私が書いたんです。よくできてるでしょう。情報の正確さと速さには自信があるんです。
よく喋る子だ。本当によくしゃべる子だ。が黙っている分を喋っているのか、喋っている分が黙っているのかよくわからないほどによく喋る。口が付かれたりしないのだろうか。
は曖昧に頷きつつ時に否定を交えながら少女、音無の言葉に耳を傾けていた。どうやら喋るのが好きらしい。
始めの会話を皮切りに、次から次へと変化し飛び出してくる言葉の数々に、は一種の感慨を覚えた。音無は音無なりに自制していたのだろう。部室に足を踏み入れた時の静かさはもはやどこかへ消えてしまっている。
は読書を諦めて、少女の時間つぶしに付き合うことにした。というか読書に戻れるような気がしなかった。




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