意識が浮上して瞼を持ち上げる。
視界に入ったのはここ最近、ようやく慣れることができた自室の天井ではない。それどころか自宅の天井ですらなかった。
そこは光にあふれ、輝きに満ちた空間だった。全ての物はフラッシュアウトして、何の輪郭も掴めない。はそっと手を伸ばして見るが、何一つ指先に触れることはなかった。殆ど無音と言ってもいい。
どうやらこの空間は、現実のものではないらしい。そうするとこれは、夢なのだろう。
明晰夢は初めて見るなと、は溜息をついた。
ぐるりとあたりを見渡すものの、何もない。どこまで続いているのかすら分からない。
は再び溜息をついた。溜息をつく以外のことができない。別段夢の世界で何かがしたいわけではないのだ。そもそも夢の中で何かをしたところで、現実に何かが起こるわけではないのだから、行動を起こす意味がない。
が再三溜息をつこうとしたところで、背後から声が聞こえては振り返る。そこには誰もいなかった。
くるりと周りを見渡してみてもやはり誰もいない。
一体なんなのかとが先ほど仕損じた溜息をつく。ものの数分でどれだけの幸せが逃げて行ったのだろうか。それすら数えるのが面倒で、は天を仰いだ。
「やあ、はじめまして」
やはり声がする。振り返るとそこには人がいた。
いや、人ではないかもしれない。人のような気がするだけで、すべての輪郭は輝きの中に消え失せているし、目鼻立ちもはっきりと判別は出来ない。声を聴いても男か女かさっぱりわからないのだ。さらに時折、完全にその姿は消え、気配すら感じ取れない。
「きみはなんだい」
は暫定人に問いかけた。表情は分からないがその人は笑っている様だった。
だが返事はない。答える気がないようだった。
はもう一度、同じように問いかけた。やはり返事はない。期待していた言葉とは全く関係のない言葉が続いた。
「申し訳ないけれど、君がここにいる理由はこちらの不手際なんだよ」
「きみは何者だ」
そのことは誰にも話していないはずだよ、とがその人がいると思しき空間を睨みつける。
の問いにその人は楽しげに笑って、謝罪の意を微塵も感じさせない調子で続けた。
「言ったろう、君がここにいる理由、まあ原因だね。それはこちらによるものだって」
顔が見えていればにこにことでも形容できそうなほど声のトーンは高い。だが反対にの機嫌は悪化する一方だった。
まず何を言っているのかが理解できない。いや、身に降りかかった出来事の理解はしているが、目の前の人が言わんとするところを理解できない。
怪訝な顔をするの思考など興味すらないようで、その人は言葉をつづけた。
「そこで君に問う。君はどうしたい」
「それは一体どういう意味だ」
その人はいっそう可笑しそうに笑みを浮かべた。それもやはりそんな気がするだけであったが。
どれだけ待ってもその人からの返事はない。期待する言葉は何一つとして返ってこない。
はもう何度目かわからない溜息をついた。
目の前にいるはずの人が笑う。
「そっか、そんなに急に尋ねられても困っちゃうよねえ。ここに来たのも急だったものね。手を打つのが遅くなっちゃったからさ。こっちだって一応気は使ったんだよ、とりあえず困らない様にはしておいたでしょう?」
「全部きみの差し金だというのは、取り敢えずのところ信用してやる」
部屋や家具が用意され、通帳には毎月一定額のお金が振り込まれる。あまつさえこの世界にはの戸籍すら存在する。がこの世界で生活していく為の下準備をしたのはこの人物であるらしかった。先述の通り、そのことをは誰かに話したことはない。話せば当然頭のおかしい人間だと思われるに決まっているからだ。それなのに当然の様にそのことをあるものとして語りかけてくるこの人物は、間違いなくがこの世界にいることに関係があるのだろう。
がそういうと満足そうにその人は頷いた。そして今までで一番感情のある声で、その人は言った。
「でもそう何度も君に干渉することはできないんだ。だからさ、次に君と会うときまでに決めておいてくれるかな」
その声はどこか残念そうで、それでいて隠しきれない可笑しさを孕んでいた。
そしてその言葉を皮切りに周りの風景が音もなく急激に遠ざかっていく。
灯りが遠ざかっていき、音らしい音が存在していなかったその空間に耳に馴染んだメロディが入ってくる。携帯電話のアラーム音だ。
そこでは再び瞼を開いた。閉じた覚えはなかったのだが、やはり開いたというのが正しい。
目に入ったのは見慣れたリビングの天井だった。いまだ鳴り止まない携帯電話のありかを探して手をぱたつかせる。いくら探っても見つからないので仕方なしに身体を起こした。
もそもそと携帯電話を鞄の横ポケットから取り出してアラームを止めた。嫌にくぐもっていると思ったら、鞄に入っていたのか。
そして自身の身なりを確認する。朝食は後回しにして、まずは風呂に入らなければならない。
妙な夢、それもおそらく事実を大いに含んだそれのせいで全く睡眠をとった気がしないまま、は着替えを持って風呂場へと向かうのだった。




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