帝国学園来たる!
ここの所、僅かなニュアンスが異なるだけのそのフレーズをよく耳にすると、はため息をついた。
入学式が済んで、新入生たちが真っ新な制服に身を包み、浮足立って登校してくる様は遠目に見ても微笑ましい気持ちにさせるものだったが、それに影を落とすかのように何度も繰り返されていたフレーズ。
一体いつから聞こえるようになったのかと、は記憶をたどる。
大きく騒がれ始めたのは円堂が部員募集に動き始めてしばらくたった頃からだが、その少し前からも帝国学園の名前は話題に昇っていた。それはどの地点からだっただろう。たしか、そう。
「転入生が来た頃……」
円堂が楽しげに凄いストライカーについて熱く語っていたその日。その転校生は私たちのクラスに編入された。
すごい偶然ってあるものね、と木野は言っていたがタイミングを考えれば偶然でもなんでもないことのように思えた。もちろん、それはその転校生が話題の人物であったということの方だ。前日に円堂と出会っていたことは偶然とよんで差し支えないと思う。ずっとここ稲妻町に住んでいる円堂の知らない少年、それもサッカー少年なら遊びに来たか越してきたか、そのくらいの予想は容易にたてられた。
しかしは溜息をついた。
こんな時期にくる転入生、それもものすごいストライカー。なのになぜか頑なにボールを蹴りたがらない。
帝国学園が弱小以前に部員数すら足りていない雷門中サッカー部に練習試合を申し込む不自然さ。
はっきり言って、嫌な予感しかしない。
気分を変えるようには一度大きく伸びをして、自分のノートに几帳面に書かれた文字を写し取っていく。
学校の教室、自分が普段使っている机の上にノートが二冊。一冊はの、もう一冊は風丸のものだ。
5時限目の授業があまりにも眠たくて、ついうっかり寝てしまったため、部活に向かう途中だった風丸を呼び止めてノートを借りたのだった。
別に同じクラスの木野に借りてもよかったのだが、昔からノートは風丸に借りることが多かった。彼は整ったノートを作る。字の上手い下手ではなく、丁寧に書いていることが分かるからとても見やすい。今でも無理でなければ風丸に借りるようにしている。余談だが、円堂からは借りたことがないし借りようとも思わない。というか借りても意味をなさない。彼は人間文明の遥か先を行く文字を使う。
「さて、風丸は陸上部かな」
全ての内容を写し終えると、はまた伸びをした。
一応声はかけて返したいから、外へ走り込みに行ってなければいいのだけれど、とノートと筆記具を鞄にしまうと教室を後にする。もしトラック付近にいなければ部室によって、メモだけおいて帰ろうと思っていた。
帰宅部であるに急ぐ理由もなく、のんびりと廊下を歩く。角を曲がったところで人にぶつかった。
「うぶっ」
「あ、すまない」
散歩下がって鼻の頭を押さえる。痛くはないがついつい手で覆ってしまった。少しうつむき加減に歩いていたからぶつかったのは相手の肩のあたり。真新しい学生服の青色が眩しい。
の反応に相手が眉根を下げて、再び謝罪の言葉を吐いた。
「いや大丈夫だ。こちらこそ、すまないな」
速度はなかったので本当にただぶつかっただけで、けがをしたとかそういう所はない。強いて問題点を挙げるなら変な声が出たくらいだ。
相手の顔を見上げる。それはよかった、と呟いたその人の顔はつい最近見たことがあった。
驚いてまじまじと見つめすぎていたのか、その人物が首をかしげる。
「どうかしたのか」
「いや、なんでもない。豪炎寺、きみは今帰りか」
咄嗟に返事をする流れで会話を続ける言葉を選んだ自分に、は内心舌打ちをした。あまり深く関わるつもりはなかったのに。
豪炎寺は頷いた。そしてにも同じ質問をする。
は首を緩く振って否定を示す。
「いや、これから陸上部に行くんだ」
「お前は陸上部の部員なのか」
少し驚いたように豪炎寺が尋ねた。何日か同じクラスにいる内にという人物をみて、よもや陸上部に入っているとは思わなかったのだろう。その驚きは尤もだった。そしてその驚きは正しい。は陸上部員ではないので、再び首を横に振った。
ではなぜ、と言いたげに豪炎寺がを見る。あまりに真っ直ぐと見られて、は一歩後ずさる。やましいことなど何もないはずなのに、突き刺すような視線から逃れるようには視線を逸らした。
きっと豪炎寺に他意はない。これはが単純に対人が苦手なだけだろう。いや、豪炎寺の目力は普通の人でも少し避けたくなるかもしれないが、やはり彼に他意はない。
「いや、知り合いの陸上部員にノートを返しにな」
合点がいったように豪炎寺は頷いた。
沈黙が流れる。お互い相手をよく知らない、つまり話題がないのだ。かといって「じゃあまたね」といってその場を立ち去るような雰囲気でもなかった。特に親しくもないがほぼ毎日顔を合わせる相手とあっさり別れる方法というものはないのだろうか。
「えっと、陸上部、外練に行かれると困るから、もう行くな」
「ああ、すまなかったな」
申し訳ないが、風丸をダシに使わせてもらうことにした。
横をすり抜けて、振り返りもせず校舎の北へ抜ける。すぐさま聞き覚えのある声がして、そちらに目を向けた。
目当ての人物は名前を呼ぶと、振り返った。長い髪の毛が後に続いてついてくる。
「、ノートは写せたのか」
「助かったよ、いつも悪いね。ノートはどうすればいい」
風丸がノートは今から鞄にしまうと言うので、それに同行することにした。部室まで大した距離ではない。何か話したいことがあるというわけではないが、風丸と一緒にいる無言は苦痛ではない。風丸がそのことについてどう思っているかはには分からないが。風丸は気のいい人物だからあまり他人を無碍には扱わないだろうから。嫌がられていたらなかなか切ない。というか風丸に嫌がられるというのは人間としてギリギリのラインに立たされている気がする。きっと風丸の気の遣い方が上手いのだろう。これが無口で無表情な人とか、わがままで会話が成り立たないだとか、そんな性格の人でなくて良かった。
こちらに来てから初めに仲良くなったのが風丸、そして円堂の二人で本当によかったとは心から思っている。
風丸は面倒見のいい性格からとの相性はよく、円堂は対人関係の相性がどうのこうのと考えることすら馬鹿らしくなってしまうのだ。どちらにも共通なのは、困ったことがあったら親身になって相談に乗ってくれるところだろう。些細なことすら大事の様になってしまうのはいただけないが。
風丸が陸上部の部室の扉を開ける。サッカー部とは比べ物にならないほど部室らしい、部室。それなりに歴史もあって、結果も出ているのだから当然と言えば当然なのだが。
「ノート、そこに置いといてくれ」
そう言って風丸が椅子を指差した。風丸に視線を移すと、おそらく風丸のロッカーから荷物を取り出しているところだった。
ノートを置いて、風丸が用事を済ませるのを待つ。別に先に帰ってもよかったのだが、なんとなくそうした。
部室の入り口に立ってぼんやりと風丸を眺める。くるりと風丸が振り返った。
「見られてると気になるんだが……」
困ったような呆れたような顔をして、風丸が笑った。はすまない、と一言謝るが、やはり視線は風丸に向いていた。
「何か用事か?」
ふるふると首を振って否定の言葉を紡ぐ。
「いや、背が伸びたなあと思っただけだ」
確か出会った頃、お互いの背丈はそんなに変わりのないものであったはずだ。
「ああ、去年すごい伸びたからなあ」
関節痛がひどかった、と風丸が膝を撫でながら笑った。
椅子の上のノートを鞄の中に入れると、立ち上がって息をつく。
「お前は昔から小さいよな」
「服のサイズとか変わらなくてけっこう便利だ」
少し裾が長くて踏みそうになるのが危険だが、と
が真剣な顔で頷く。裾は折り曲げているものの、暫くするとずり下がる。極稀に自分で踏んで躓くのだ。
危険で仕方がない。
そう聞いて風丸は可笑しくてたまらないと、腹を抱えて笑い出した。としては不本意なほどに。
風丸の脇腹を肘で突くと、仕返しと言わんばかりに頭を撫でまわされる。必死に距離を取った時には髪の毛はぐしゃぐしゃにされてしまっていた。
風丸から少し離れた場所で、手櫛を使って髪を整える。といっても流れに合わせて分け直すだけだ。
の髪の乱れが収まったころに風丸が声をかけた。
「今日の放課後、時間空いてるか」
「特に用事はないが、どうした」
そう尋ねると、少し困ったように視線を宙に彷徨わせて風丸は鉄塔広場に行きたい、と言った。
口の中で繰り返す様に、鉄塔広場、と呟いた。
確か稲妻町のシンボル的存在で、夕日がきれいに見える場所だったと記憶している。
風丸が言うには、確かめたいことがあるらしかった。
「じゃあ部活が終わるまで陸上部でも見てることにする」
そう言っては荷物をベンチの上に置いた。といっても鞄一つだ。
一緒に部室を出たが、風丸は一足先にトラックに戻っていった。後輩が名前を呼んでいるのが聞こえたからだ。
は風丸を見送って、のんびりとトラックへ向け足を進めた。
陸上部員たちが走っているのが見渡せる、少し離れた所には腰を据えた。スカートだが中にはジャージを穿いているので気にせず膝を抱える。ジャージといっても、ハーフではない。長い方だ。雷門中に入学した時から変わらないこのスタイルは、もう広く知れ渡っているらしい。
体育の時でもスカートを穿いている時でもは長いジャージを着用していた。
その恰好を初めて見た風丸は、さっきよりも笑っていた。円堂は呆れ返っていたのを覚えている。
はスカートが苦手だ。小学生の頃から一度も穿かなかったが、雷門の制服はスカートだった。だからジャージを着用をしたのだ。生徒手帳に書かれている校則に、スカートの下にジャージの着用を禁止する、などと書かれていないからこれは校則違反ではない。
トラックを走る部員たちをぼんやりと眺めていると、金髪の子と目があった。数秒間見つめあう。ぺこりと頭を下げて視線を逸らしたのは向こうの方だった。も習って頭を下げる。顔を上げた時にはもうその場から離れてしまっていた。風丸と楽しげに話している。
そこからさらに視線を遠くにやると時計が見えた。部活終了の時刻まで、あと一時間半だった。
次へ
トップへ