「ねえ、南沢」
可愛らしく傾けた頭の動きに合わせて、肩口に切り揃えられた髪の毛がさらりと揺れた。
同じクラスで、小さい頃から実家はおとなりさんで、座席だって名前順に座る限りやっぱりほとんどおとなりさんで、もちろん、そうなってくると登下校だってやっぱり一緒になっている、女子生徒。
長いまつげや薄く色付いた頬。一般的にみて、可愛いと言われる分類である容姿。
大きくてパッチリとした眼が、不安そうにこちらを見つめている。
美術室と自身のクラス教室との中間地点で、壁際に追い詰めている状態――いわゆる壁ドンというやつだ。周りの人間が見れば確実に誤解するであろう光景。
「ねえ、おねがい……!」
「うるさい」
何度目かの問答に南沢は視線を横にずらす。
顔の両脇を挟むようについた両腕が見えただけだった。
「こんなに頼んでるのに……どうして?」
「どうしてもクソもあるかよ」
はあ、とため息を吐けば、彼女は悲しそうに目を伏せてふるふると首を振った。
そろそろわかってきたかと思うのだが、この状況。
壁ドンされているのは実は俺、だったりする。
何を好き好んでこんな女を壁際に追い詰めなくてはいけないのか。
いくら世間一般に可愛いと称される見た目をしているとしてもごめん被る。欲しいという奴がいるなら喜んで差し出すし、むしろお礼に飴玉のひとつやふたつくれてやってもいい。
そして返品は一切受け付けないからそこんとこはよろしく頼む。何があっても俺は受け取らないからな。
「なあ、俺今から部活なんだけど?」
「私も今から部活。だからこうやって頼んでるんじゃない」
「一応、大会があるんだけど」
「私も、コンクールがあるのよ」
「お前はいつものように石膏像に愛を囁いてろよ」
「なんなら南沢に愛を囁いてもいいからぁ! 不本意だけど!」
「やめろいらねえ気味がわりぃ」
このやりとりを、俺は一体何度やってきたことだろうか。
幼い頃――それは彼女がペンと紙を手にしたあたり――その頃から彼女は事あるごとに俺に頼みに来る。
「ねえお願い、一回だけ、一回だけでいいからぁ!」
「いいかげんにしろよ。嫌だって言ってるだろ。もう離れろよ、本格的に部活が始まっちまう」
エースで先輩である俺が部活に遅れるわけにもいかない。
そろそろ誰かが呼びに来てもおかしくない。こんな状況を見られでもしたら……ああ、考えたくもない。
噂というものは怖いもので、いや、噂なんてしていないのだが、ちらっと思考をかすめただけなのだが。
人通りのなかった廊下に、足音が響いてくる。
ねえおねがい、だか、一回きりでいいの本当に、とか、なんでもしますからおねがい南沢ぁ、なんて言っている彼女には聞こえていないのであろう足音だ。
実際、だいぶ近付いてくるまでその声に邪魔されて俺にも聞こえていなかった。
おそらく、その廊下の角の先に、いる。
「おいっ、いいからちょっと黙れ。でもって離れろ」
「そんなっ、だってそうしたら南沢逃げちゃうんでしょ!」
「だぁもういい加減にしねえと殴るぞ」
彼女の顔を手のひらでグイグイと押しのける。負けじと俺の手を掴んで引っペはがそうとする彼女と、壁を背にして彼女をどけようとする俺。
運悪く彼女の身体が廊下の角を隠してしまい、俺からは来訪者を確認する術もなくなる。
「南沢ぁ〜」
「このゴリラ女! どけって言ってるんだよ!」
「い、い、か、らっ!」
彼女がそうスタッカート気味に声を大きくした。よくない。全く良くない。
良くないことは続くようで、廊下の角に人がいることがわかる。
さらにそいつはこの状況に気がついていないらしい。歩みを緩める気配も引き返す気配もない。
そして角を曲がって――
「早く脱げって言ってんのよっ! このバカみさわぁ!」
「おい南沢、いる、の、か……」
二つの声が同時に聞こえた。
双方固まっている。いや、俺も固まっている。
「あ、さ、三国、くん……?」
驚いた様子で体を反転させた彼女は、最初はポカンとしていたが徐々に焦った様子で笑みを浮かべている。
顔にどうしようと書いてあるのがわかるが俺にもどうしようもない。
ひとつ良かったのは見つかったのが三国だったという点だろうか。
俺の手を押さえ込んで壁に押し付けつつ脱衣を迫る女、という痴女決定は免れないだろうが、それも三国の中でだけだ。三国は言いふらしたりしないからな。それに俺を執拗以上にからかいもしないし、事情を話せばわかってくれるだろう。どうみても俺は被害者だ。
「そ、その、悪かったな! どうも邪魔してしまったみたいで」
そういって三国は照れたり焦ったり困ったりしながら路を返そうとする。
その後ろ姿に彼女はことさら焦ったようで、ばっと俺から離れで三国に訂正を入れる。これもまた、でかい声でだ。
違うのよ本当にそういうことじゃないの勘違いしないでねそんなんじゃないから絶対違うから何をどう好き好んでも南沢に着地することはないから絶対運ありえないから!
聞き取ったことだけでこれだけのことは言っていた。しゃべり始めると周りを置いていってひとりで駆け抜けるのは癖だが、それにしたって今日は早い。さらにとても失礼なことを言っている。
圧倒されたように三国は「お、おう」なんて頷いているし。
彼女の後ろ頭を叩いて俺は三国のもとへ歩みよる。
「いっったいじゃない!」
「いい音なったもんなあ」
「こ、こら南沢!」
なんで俺が咎められてるのかわからないから、俺はグラウンドのある方角を親指で指し示す。その方角に足を勧めた。
「部活、呼びに来たんだろ。行くぞ」
「ああ、そうだが……」
そういってちらりと彼女を見やる三国。彼女がにっこりと笑みを浮かべて、今更ながらにお上品そうに手を振っているのを見て三国も手を振り返し俺の方へと駆け寄ってくる。
少し言った先で立ち止まってそれを見ていた俺に、三国が追いついて。
「彼女、おまえの幼馴染だったっけ」
「違う。単に生まれた時から家が隣にあるだけだ」
再び、グラウンドに向けて足を動かす。時間的には急いでいるはずだが、俺たちの足取りはそんなに速いものではない。
「それは幼馴染って言うんじゃないのか? まあ、なんだ。よく話したことはないが、その、変わった子だな」
「弁明しておくけど俺、何にも悪くねーからな。あいつ、極度の美術オタクで俺のことデッサン人形扱いしてるだけだ」
「そうなのか」
意外そうに目を瞬かせた三国に俺はため息を返した。
小さい時から一緒にいないとわからないのか。ああ、いや、あいつ、学校では猫をかぶっている節があった、と眉間に皺を寄せた。その猫も授業時間――美術室にいない間だけだが。
「ろくでもねーよ、あの女。毎日美術室に日参しては石膏像に愛を囁いているし、鉛筆持たせると何時間でも動かねーし、話しかけても気がつきやしねえ。寝食忘れて紙に向かってるのが日常。そういやあいつの部屋石膏像置いてあるんだぜ?」
「そっそうなのか……」
今度は反応に困ったようで三国はそれでも同じ言葉を繰り返した。
下駄箱で靴に履き替えてサッカー棟に向かう。今日はそんなに風も強くなく、天気もいいが暑いほどじゃない。絶好のサッカー日和だ。
「まあ、かわいいこだな」
三国が今日の天気のようにからっと笑顔でそう言った。
俺は足を止める。
「……なんだ、どうしたんだ。その顔は」
「……いや……なんでもねぇよ」
眉間に寄ったシワをグイグイと指で押し戻しながら俺は頭を軽く振った。
一瞬恐ろしい想像をしてしまった。そんなことがあるはずがないしあってたまるか。
それを三国がどう勘違いしたのかわからないが、さらにおぞましいことを、サラリと言ってのけた。
「安心しろよ、なにも盗ろうってわけじゃないからな」
三国の背中に蹴りを入れる。手加減は一応したが、それなりに痛かったらしい三国は膝をついて少しばかりうめいていた。
学生服の背中に砂埃がついて白くなっていたがそんな事を忠告してやるはずもなく、三国を置いて俺はサッカー棟の入口をくぐった。
誰から、何を、盗るだって?
おぞましい。いつ誰があれの所有者になったというのか。ああ、鳥肌が立っているじゃないか。三国のやつめ。
自分の両腕をさすりながら更衣室に入れば倉間が「あれ、南沢さん寒いんですか?」と首をかしげて駆け寄ってきた。。
「風邪っすか? 気ィ付けてくださいよ」
そう言って見上げてくる、俺より低い位置にある水色の頭をぺしぺしと叩いて笑う。
「大丈夫だっての。三国が気色わりぃこと言うから鳥肌立っただけだ」
「鳥肌? まあ風邪ひいてねえならいいですけど」
そう言って自分の準備に戻る
三国、わかるか。カワイイっていうのはこういうことだよ。こういう素直で気遣いができるやつのことをカワイイって言うんだよ。自分のことをあとにしてでも先輩のことを気にかけてくる後輩なんてカワイイに決まっている。
「倉間はカワイイなあ」
後ろから頭をわしわしとなでてやれば不服そうに口を尖らせて、しかし文句を言うでもないらしい。今日はそんな気分なのだろう。
先輩俺は俺は、なんて駆け寄ってくる浜野の頭もなでてやりながら、あの最悪の腐れ縁をもったおとなりさんを思い出す。
うん、やっぱり、あれはかわいくない。浜野でもこんなに可愛いというのに
三国を筆頭に、世の中の男は見る目がない。まったくもってなってない。
うんうんと頷いて俺は準備に取り掛かるのだった。
その後、三国がいてもいなくても関係なしと押しかけてくるようになったのは多大な誤算だったわけだが。
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