青空のもとで再会を誓う



真っ青な空が広がる屋上に、彼女はいた。
「あれ、お客さん? 珍しいね。それに見ない顔だ」
ワンピースの裾を風に遊ばせて、彼女は笑った。
いい天気でしょ。彼女は大きく伸びをして天に腕を伸ばす。包帯に松葉杖という出で立ちの自分がいっそ不似合なくらい、彼女は清々しく笑っていた。病院の屋上で。
襟足からもみあげに向かって長くなる髪の毛は彼女が動くたび肩付近で揺れる。
「君は今日入って来た人? それとも今日は寄っただけ?」
「……今日、こっちに入ってきた人」
「うーん、そっか!」
彼女はからからと笑った。何がおかしいのかも分からないままつられて、しかし引きつったように笑う。
風が吹くたびに彼女のスカートは、髪の毛は風に遊ばれる。風丸も長い髪を風に遊ばせて、屋上に立っていた。
風丸の来訪も好き勝手に吹き抜ける風も、そんなことはお構いなしと彼女はたった一人、屋上にいたらしい。
いつからいたのかは知らない。
風丸は閉じられた空間というものに嫌気がさして、たった今しがた病室を抜け出してきたのだ。
「ああ、そうだ。私はずっとここにいる人だよ。だからここの事については君より先輩、かな」
内緒話をするように、子供が自慢するように、彼女は笑った。病院生活が長い事なんて誰に誇れることでもないだろうに。
風丸は奇妙な出会いに小さく溜息をついた。
今の自分はこの元気に付き合うほど、気持ちが前を向いていない。
軽く頭を下げて今しがた歩いてきた道を帰る。
彼女の反応は見なかった。



一週間ほど雨が降っていた。季節が梅雨に入ったのだろう。
外に出ることもできず、かといって病室でできる事もなく。鬱屈と一週間は過ぎた。
だから久しぶりに外に触れたくて、屋上に出た。
「あら、一週間ぶり? また会ったね」
「君か……」
彼女が太陽の光を受けて笑っていた。
相変わらず、ワンピースを風に遊ばせている。
「病院の生活には、もう慣れた?」
「まあ、そこそこ」
「慣れると結構快適でしょ?」
あはは、と笑っている。
彼女は一体どうして病院にいるのだろうか。見る限り、健康な人そのものだ。
しかし彼女曰く”先輩”なのであって、長期入院患者なのだろう。
「あ、今なんで、って顔してるね。私は生まれつき身体が悪くって。ずっと病院生活なのさ」
その言葉すら嘘であるかのように彼女はけろっとしている。
彼女は嘘をついていないのだ。本当の事のように言わないだけで。ただそれはひどく薄っぺらい言葉に感じられた。
そこでしばらく話をした。
長くなるであろう病院生活に少しの刺激を求めたのかもしれない。
風丸は彼女と話し終えるとひらりと手を振って扉へと足を進める。
「じゃあ、またね」
彼女は笑った。
真っ青な空に真っ白なワンピースが印象的だった。



晴れが続いていた。
風丸はここ数日屋上に日参していた。
彼女はいつでもそこにいた。
風丸が屋上の扉を開けると、フェンスに寄り掛かった彼女が笑いかけてくる。
「やあ、おはよう。今日はとってもいい風が吹いているね」
「ああ、そうだな。今日は気持ちがいい」
風丸は彼女の事を気に入っていた。
入院生活の暇つぶしではなく、退院してからも彼女のために病院に日参してもいいと思えるくらいには。
もちろんそんなことをしたら彼女に怒られるのだろう。だからそんなことはしないけれど。
「どうかしたの? 何か考え込んでいるみたい」
「ああ、いや。君はいつでも楽しそうだなって思ってさ」
風丸は取り繕った。
さすがに名前も知らない彼女の見舞いに日参するだなんて事、言えるはずもなかった。
そういえば、と風丸は思い至る。風丸は彼女の名前を知らない。部屋番号さえ聞いた覚えがない。
初対面の時、底ぬけて明るい彼女の調子に嫌気がさして路を返した。そしてそれ以降、名を尋ねるでもなく会話をしている。
「君はどちらかというといつも困った顔をしてるね」
「そ、うか? 自分では分からないんだけど……」
突然の言葉に驚く。自分でした質問に関係する会話だ。
彼女は眉尻を下げて笑っている。
ちょんちょん、と風丸の眉間を指でつついた。
「ここによく皺が寄ってる」
「気付かなかったな」
「私はね、いつかは死ぬって事、ちゃんと分かってる。だったら今を楽しく生きないと損じゃない?」
「死ぬって、そんな……」
身体が悪いと言っていた。
でも彼女は元気な人となんら変わりがない。松葉杖をついている分風丸の方が重傷に見える。
その風丸も、もう松葉杖がなくとも大丈夫なくらいには回復しているのだが。
「そういえば、君の名前、俺まだ聞いてなかったよな」
「あれ、そういえばそうね。じゃあ教えてあげないから、自分で考えてみて?」
「そんなの当たりっこないだろ」
「ふふ、そうね。でも相手の名前を知らないなんて、秘密の関係みたいでなんだか楽しいじゃない!」
屋上でワンピースを風になびかせ、彼女は朗らかに笑った。
この底抜けの明るさは風丸にまねできないと思った。少しうらやましかった。
そして何日かの間、晴れやかな日が続いた。
風が心地よく吹いている、穏やかな日だった。



二、三日の間、雨が続いた。
彼女とは何の約束をしているでもない。天気のいい日、それも風のよく吹く日に屋上に行けば彼女に会えた。
雨雲は風に連れ去らわれ、そしてからりとした天気の日がやってくる。
風丸は屋上への扉を開けた。
雨の間に溜まったらしい洗濯物のシーツが一斉に屋上に干され、風をはらんでいた。
シーツの海を縫ってフェンス付近に歩み寄る。
予想通り、彼女はそこにもたれて空を見ていた。
「私ね、手術を受けなきゃいけないって」
「手術? そんなに悪いのかお前の病気」
しばらく話し込んだのち、彼女はぽつりとそういった。
長期入院や今までの話から、病状はよいものだと思ったことはなかったが、元気に見えたのは、彼女の振る舞いに踊らされていただけだったのだ。
「成功する確率がね、とっても低いんだって。受けないと死んじゃうんだけど、受けても死んじゃうかもしれないって」
はたはたと真っ白なシーツが真っ青な空の下ではためいている。
いつもの調子でからりと告げられた言葉に風丸は絶句した。
「怖いわ。私、とても怖い。受けなくてもすぐは死なない。でも受けたらすぐ死ぬかもしれない。でも受けないといずれ死んでしまう。死ぬ事を覚悟しているなんて嘘。私はただの弱虫なの」
「そんな事……」
声はいつもと変わらない調子で、それでも顔に笑みはなかった。まっすぐに遠くの空を見つめていた。
雨雲が遠くで雷鳴を轟かせていた。



快晴が続いた。
何度か屋上に足を運んだが彼女の姿はなかった。
そよそよと風が吹いている。今日は洗濯物もないらしい。屋上は風丸一人だった。
風丸は路を返す。
自分に宛がわれた病室に向かって歩いている。
自分はもうすぐ退院だという事を彼女に伝えたかった。
松葉杖はもういらない。あと少し経過を見て、そうすれば病院を出る事になる。彼女とは会えなくなる。
それまでに彼女と何かしらの約束を取り付けておきたかった。
病室の扉を開ける。中には看護師が一人いた。同室のやつらは思い思いの場所にいるらしかった。
「風丸さん? これ預かりものなんだけれど」
看護師から一枚の封筒が手渡される。
頭を下げて看護師が部屋を出ていく。それを見送って自分に宛がわれたベッドに腰掛けた。
手の中にはうすい青色の封筒がある。その中には同色の便箋が数枚。
少し丸っこい字で、メッセージが書かれていた。



君は私の事を知らないだろうけれど、君が雷門中学校の生徒だって、私は知っていたの。黙っていてごめんね。
風丸一郎太。雷門中学のサッカー部で、2番のディフェンダー。
サッカーの事はよく知らないけど、君の事はすぐに覚えられたよ。
初めて見たのはテレビだった。なんとかっていう大会に出てたよね。あの時は陸上競技をしていたっけ。
すごく足の速い子だと思った。ちょっとうらやましかった。
私は一度も走ったことがなかったから。
次に君を見たのは一年後。今度はサッカーのユニフォームを着ていたね。
陸上をやめてしまったのは残念だったけど、君が走る姿にいつも応援されていたよ。
誰よりも速く走る姿はかっこよくて、あこがれた。
いくら邪魔をされても立ち上がる姿は眩しかったよ。

怪我をして宇宙人との戦いからは離脱してしまったけど、大丈夫。すぐによくなる。
君は自分の事を強くないって言ったよね。
私が自分の事を弱虫って言ったからそう言ってくれたのかもしれないけれど、私は嬉しかった。
君は強くなれる。私はそう思う。
君は誰かのために、なにかをできる人だから。きっと大丈夫。
思うだけしか私にはできないけれど、君の事をいつまででも応援しているよ。
私に手術を受けろって言ってくれたよね。だから私、決心したんだ。
君が私に勇気をくれたんだよ。強くなりたいって思えたよ。
君と一緒に、外を走れたらいいって思ったんだ。自分で選んだんだ。

いつだったか君が私に訊いたことがあったよね。
どうして屋上にいるのか、って。
走る君と同じように、私も風を感じてみたかったんだ。走れないから、すこしでも風を、外を感じてみたかった。
君と一緒に外の世界にいるような気がして、誰かと一緒の時間を共有できてうれしかった。ありがとう。

でも、ごめんね、風丸。私、強くはなれなかったよ。
思った以上に私は弱虫だったみたい。もう駄目だってわかっちゃった。
お医者さんは大丈夫っていうけど、私の事は私が知ってる。
だから最後の最後に、君に言いたい事をまとめてみたんだ。
大分長くなっちゃったけどさ、伝えたいことは実はこの先だけなんだ。
君は絶対に、強くなってね。
私みたいに弱虫になっちゃだめだよ。きっと勝つんだよ。
君なら強くなれるから。そこは私が保証するよ。って、私のお墨付きじゃちょっと頼りないね。
この手紙、読んだ後は捨ててくれていいよ。持っておくのも邪魔になるでしょう?
できたら私がいたことだけ、覚えていてほしいけど、忘れちゃっても別にいいよ。前を向いて生きてね。

あ、そうそう。
最後の最後、の最後。
今まで約束したことなかったでしょ? だから約束。
青空のもとで、再会を。
なんてね。
元気になって青空の下を走っていてください。風を感じてください。
そうしたら私は嬉しいよ。
さよなら、風丸。
私は君の事、好きだったよ。



かさり、と手紙を机に置く。
指先に紙特有のざらつきを感じた。
風丸はゆっくりと紙面の余白をなぞった。
「ばか、これ手紙だろ……ちゃんと名前、書けよ」
彼女も俺も弱かった。ただ弱かっただけだった。
そして彼女も俺も、強くなりたかった。
ただそれだけの事だったのに。
どうしても世界は俺たちを強者にしてはくれないのだ。



剣崎という男が現れたのはそれから少しした頃だった。




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