私が彼にあったのは始業式も過ぎ去った、とある春の日のことだった。
校庭の桜は程ほどに散ってしまい、あとは葉桜になるのを待つばかりだったのを覚えている。
雷門中学校は都内でも有数のマンモス校と名高い学校で、慣れないうちは校舎の中ですら迷子になってしまうほどの敷地面積を誇る。尤も、今年で二年生に進級した私は、頻繁に使う教室の場所くらいなら迷うことなく訪れることができるが。
私はプリントとノートの束を持って教室を出た。こんなに集配物のある日に日直だなんて、ついていない。急いで職員室に運んでしまおうと、嵩張る紙類を纏めて持ったのがいけなかったのだろう。中央階段に差しかかる時のことだった。
廊下にある窓は大きく開け放たれていて、そこからは春らしく暖かい風が舞い込んでいた。その風に、積み上げられていたプリントがさらわれ、バサバサと舞っていく。
「ああ、もう」
階段の踊り場や廊下、あるいは外まで飛んでいったかもしれないプリントを追いかけようにも、手に持ったノートがそれを妨害する。拾い上げようにも屈むことは出来ず、どこかにノートの束を置こうにもそれらしい場所はどこにもなかった。きょろきょろと廊下を見回す限りは運が悪いのか、誰もいない。
「……ああ、もう」
私は大きくため息をついた。急いでいるときは、本当にろくなことが起きない。一度戻ってノートを置いてこよう。それからプリントを拾い集めるのだ。
そう思って、くるりと身を翻す。動きに従ってスカートが揺れた。私服ではあまり履くことのないスカートは相変わらず慣れない。それでもこの学校の制服は可愛いので気に入っている。シンプルで飾り気のないものだが、着ているといい素材なのだろう。とても肌触りがいいのだ。
再び風が吹く。さっきよりも強い。スカートはバタバタとはためいて、廊下に散らばったプリントがさらに遠くへと広がっていく。これ以上被害が広がる前にとりあえず窓だけでも閉めたい。
私はもう一度周りを見回して誰もいないことを確認すると、窓際の壁に片足を付く。そしてその上にノートの束を載せて、手の自由を得る。そのまま窓の淵に力を入れる。さほど力を入れなくても、窓はカラカラと軽い音を立てて閉まった。
私はまたため息をついた。ひとクラス分のノートというのは存外重い。ノートと太ももの隙間に手を滑り込ませる。しっかりと束を支えたのを確認してから、私はノートの重心を移動させた。
「……おい」
一息ついたところで、誰かに声を掛けられる。どこか躊躇いを含んだその声の主を探そうと視線を動かすが、誰の姿も見当たらない。ぱちぱちと瞬きを繰り返していると、また同じように声が聞こえた。さっきよりも一層はっきりと意志のこもった声だった。下から聞こえる。
「プリント、風に飛ばされたのか」
そう言って私の目の前に白い紙束を差し出す。人物はまだ見えない。
「ありがとう。ノートの上に乗せてもらってもいいかな」
「今日は風が強いからな、気を付けた方がいい」
その人はため息をつきながら、パサリとプリントを置いた。視線はよそを向いている。私は集配物をしっかりと自らの方に引き寄せた。跳ばないように今度はしっかりと抑える。
「えーっと、きみ、この間転入してきた人だよね」
彼が頷く。クラスの女子が騒いでいた。かっこいい男の子が転入してきたのだと。ここに一年通って、見たことのない顔だから、きっと彼がそうなのだろう。はっきりと名前を覚えていないが、なんだかすごく大惨事が起きていそうな名前だったように思う。
「わざわざ集めてくれたんだね、助かったよ」
彼は階段を上り、私と同じ目線に立つ。と言っても、彼のほうが背が高いのか、彼はまだ私より一段低いところにいるのだが。
「そんなにいっぺんに運ぼうとするからだろう」
「あはは、その通りなんだけどね。ついやっちゃうんだ」
ここらでもう一度お礼を告げて、早く荷物を職員室に持っていきたい。そろそろ手が痛くなってきた。私はもう一度太ももの上にノートを置いた。手は離さないが、少しでも感じる重さを軽減するためだ。
「本当に助かったよ。じゃあ、私はこれで」
彼は何かを言いたげに口を開くが、何の言葉も出ないまま、視線が宙をさまよっている。そしてまた視線が階下を望む。
「ひょっとして、きみ、迷子なの」
私は思いついた言葉をそのまま発する。彼は少し目を見開いてから、気まずそうに視線を逸らした。表情はあまり大きく変わっていないが、分かりやすい。
考えると私もこの学校に来た頃はよく目的地にたどり着けなかったものだ。彼はついこの間転入してきたのだから、それも仕方ないのだろう。
「いいよ、案内してあげる。プリントを集めてくれたお礼にね」
先に職員室に行くけどね、と付け足すと彼は少し笑った。彼は私の手から比較的重たいノートの束を引き取り、私にプリントを持つよう促した。そして少し困ったように「図書室に行きたいんだが……」と言った。図書室も職員室も階下にあるが、反対方向なので手間になってしまうかもしれない、と伝えると彼は首を振った。
「いや、構わないさ。今日は本当に風が強いからな」
「プリントはもう飛ばないでしょ」
私は両手に持ったプリントの束を見せる。彼は再び首を振る。
「そうじゃないんだ……」
彼がそこで言葉を濁すので、私は首をかしげた。視線だけで先を促す。くぐもって何かを言う彼の声は初めに声をかけてきたときの様に戸惑いを含んでいた。
「はっきり言いなさいな」
「その、スカートの」
スカート。予想外の単語に私はますます首をかしげた。階段を下りながら、彼の言葉の続きを待つ。彼は意を決したように顔を上げたが、すぐに視線は横に逸れていく。
「スカートの時は中に何かを履く方がいいんじゃないか……」
彼の声は徐々にフェードアウトしていったが、言わんとしていることは理解した。階段の上でスカートを風になびかせながら行儀の悪いことをしていたのは私だ。
彼は私と視線を合わせようとしない。私は固まったまま表情一つ動かすことができない。
するりと手をすり抜けていったのは果たして一つだけだったのだろうか。風のない廊下に、真っ白なプリントが散らばった。
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