今日もの両親は家にいない。
出張などいつもの事で、県内から県外、果ては国外までと行ったり来たり忙しいものである。
小学校も三年生の半ばになる頃までは、母も気を使っていたのか一日の終わりには家に帰ってきていた。だがが小学四年生になった今、遠征もおかしくない。というかまさに県外出張真っ只中だ。がしっかりしていることをよく知っている親ならではの奔放さだ。単におとなりさんの面倒見がいいおかげとも言える。
食事の用意が出来ないわけじゃない。洗濯も掃除も、自分の分くらい学校のあとでも毎日できる。
折角の連休に一緒にお出かけできなくてお母さん悲しいわ、としょげながら仕事に向かった母の姿を見たのは二日前だ。
にとってはそれも既に慣れっこで、苦笑しながらその背中を見送った。過干渉されない分、気が楽でもあった。
今までも、母が帰ってくるとは言え午前様にならない程度の時間帯であった事の方が多い。ギリギリ一日のうちに帰ってくるので、顔を合わせない日も少なからずあった。普段なら困ることもないはずだった。
しかし今、比較的は困っていた。
頭ががんがんする。視界がぼやける。くらくらと眩暈すら覚えるのは血圧が上がりきらないからなのか。
ぞくりと背中を走る寒気に腕をさする。春も過ぎて夏へと向かうこの時期に駆け上がるこの寒気。
踏み外しそうになる階段を手摺にしがみつきながら懸命に降りた。体温計はどこにあっただろうか。
軋む関節と歪む世界に吐き気を催しながら、渋る体に鞭を打っては戸棚をあけた。
「風邪だな。最近流行っているものだろう。今日は安静にしていなさい」
「うう、はい……すみませ……」
恥ずかしさのあまりもそもそと布団の中に顔を埋めていく。
の寝るベッドの脇にいるのは豪炎寺勝也。せっかくの休みになぜか隣の家の娘を診察している医者だ。
聞けば伝染りやすいものではないらしいので、不調な所にちょうど拾ってきてしまったのだろう。まったくもって付いていない。
部屋の入り口からは不安そうに子供が二人覗いている。豪炎寺修也とその妹夕香だ。
邪魔をしてはいけないと思いながらも心配なのだろう。ひらひらと手を振って見せれば少し身を乗り出してきた。
夕香がぱたぱたと駆け込んできておじさんの足にすがりつく。
「明日になっても寒気が続くようなら病院へ行こう」
そう言っての頭を優しく撫でた。申し訳ない気持ちと同時に感謝の思いでいっぱいになる。
戸棚から出した体温計はの体温を39度と計測した。予想の通りであった結果には重々しく溜息を吐いた。
間違いなく風邪だ。今日はゆっくり休んで、それでも良くならなければ病院も視野に入れておこう。
ゆっくり立ち上がり、体温計はそのままにして、氷枕の準備にとりかかった。
冷たい枕にタオルをぐるぐると巻いていく。ベッドまで行くのが億劫だがソファでは治るものも治らないだろう。
今日は修也の従兄弟の真人が連休を利用して遊びに来ると言っていた。
真人はサッカーをしようと修也と約束していて、夕香と一緒に晩御飯の手伝いをする約束もしていた。従兄妹水入らずの空間に私も同席する事が彼らの中では決定事項であったらしく、特に断る用事もなかったため同意した。
これは約束を果たすのは無理だなと携帯電話で隣家に連絡を入れると出たのは修也であった。
「修也くん? だけど」
「どうした」
「悪いんだけど、今日の予定はキャンセルさせて。体調悪いみたい」
さっくりと要件だけを告げて通話を終えようと思っていた。
しかし修也の反応は尋常じゃなかった。おろおろと狼狽えて「父さんに言ってくる……っ」と受話器を置いて行ってしまったのだ。
「え、ちょっと、修也くん?」
通話を終了してくれていたのならもう一度かけ直せるが通話は繋がったままでパタパタと足音が響いてくる。
もう一度かけ直してもきっとでないだろう。手が離せないから修也が出たのだろうから。
「なんなの、もう……」
携帯電話を見つめ、三秒ほどそうしていたが通話を切った。
ずるずると階段を上がりひんやりと冷えた枕と布団に身を包んだ。すぐに暖かくなるだろうが、こんなことなら布団に入る前に湯湯婆に思い至ればよかったと独り言ちた。もっとも、思い立っていたところで面倒で用意はしなかったであろうが。
それから二分も経たずに部屋の扉が盛大に開き泣きながら夕香がベッドに飛び込んできたので安眠はできなかった。
ぐえ、ととても間抜けな声が出た気がする。
ぎゃんぎゃんと泣き喚く夕香に頭を抱えながら体を起こす。
ものすごく頭に響く鳴き声を止めようと夕香の背中をぽんぽんと叩く。膝の上に乗っかっていたのでついでに軽くゆする。
一緒に遊べない事がそんなにも嫌なのかとは吐きかけた溜息を飲み込んだ。
動きに誘発されたのか鳴き声はやんだ。しかし大きな瞳に目一杯涙を溜め込んでいる。
すごく関わりたくないな。今この瞬間位は寝かせてくれ、と思ったのを奥に押しやって笑みを浮かべた。
「……どうかしたの、夕香ちゃん」
「しんじゃいやああああ」
ぎゅうぎゅうと抱きついて離れない夕香をなだめるが、何がどうしてそうなったのか皆目見当もつかない。
遅れて修也とおじさんが部屋に入ってきた。
「こら、夕香。ダメだ」
修也がそう言って夕香を引っ張るが離れない。結果、を激しく揺さぶっただけに終わる。
今度はおじさんが夕香、と声をかけた。
「大丈夫だからあっちで修也と待っていなさい。部屋に入らないように」
ぐすぐすと鼻を鳴らしながら修也に手を引かれ夕香は部屋をあとにした。二人共ちらちらとこちらの様子を伺っていて心配なのは痛いほどわかった。
簡単に診察を済ませたおじさんは「風邪だな」と言った。
「血相を変えて修也が呼びに来るから何事かと思ったよ」
「すみません……体調悪いから今日は休んでおきますって言っただけなんだけですよ?」
「ちゃんはあまり普段からそういう事を言わないからね、心配だったんだろう」
おじさんは可笑しそうに少し笑った。
何かあればすぐ呼ぶようにとにいいつけて、勝也は部屋を出ていった。
「……ん」
「すまん、起こしたか?」
まぶしさと人の気配を感じて身動ぎをした。
申し訳なさそうに、聞き覚えのある声が聞こえて目を開ける。
ぼんやりと霞がかる思考と視界の淵に人影を捉えた。
日に焼けた健康的な肌と対照的に淡い色合いの髪が逆立っている。
修也だろうか。風邪が伝染るといけないから病人の部屋には立ち入らないようにと再三忠告していたというのに。
「……伝染るから、ダメ……でしょ」
息も絶え絶えにそういえば、少し咽せた。
どうやら相当喉が渇いているらしかった。
けほけほと継続する咳を心配してか、そっと髪を指が梳いていく。
「もう少し寝てろ。熱はだいぶ下がってきてるから」
小さく頷けば、満足そうな雰囲気が伝わってきた。
目を瞑れば、心地よい手のひらの感触が睡魔を呼び寄せる。
「ありがとう、修也くん」
穏やかな波に身を任せる前にそう呟けば、ぴくりと手は動きを止め、そしてひと撫ですると離れていった。
「気にするな、早く良くなれよ。みんな心配してるから」
静かに気配が離れていって、目をつむっていても部屋が暗くなったのが分かった。
ぱたん、と扉が閉まるのを皮切りにの意識もすとんと落ちていった。
階段を下りる足音に惹かれて寄ってきたのだろう。
「まさと! おねえちゃんは?」
心配そうに駆け寄ってくる従妹の頭を撫でてやりながら大丈夫だと答えてやる。
大きな瞳が揺れているのは相変わらずだったが、とりあえずは納得したようだ。
ついでにそわそわとこちらを伺っている従兄弟にも声をかけておく。
「ぐっすり寝てる」
「そうか」
ほっと胸をなで下ろした修也を見て真人は溜息を吐いた。
心配なら真人に任せず自らが様子を見に行けばよかったのだ。
病人のいる家でバカみたいに修也と喧嘩をする気はないので黙っておくが、真人はまた息を吐く。
に言われているからなのか、それともおじさんに言われたのか、の眠る部屋に足を運ぶ気はないようだった。
「せっかく修也とサッカーやろうと思ってきたのによ」
「……悪いな」
あらかじめ、今日ここに来ることは伝えてあった。
連休だから泊まりがけでサッカーをする約束だったのだ。
修也も楽しみにしていたはずだ。だからこそ申し訳なさそうに眉尻を下げている。
「心配でしかたねーんだろ、分かってるよ」
そういえばまた、悪いな、と言って修也は小さく笑った。
が心配なのは真人だって同じで、普段から心配されるのを尽く嫌がるが予定をキャンセルするほど体調が悪いなんて自己申告してくれば尚の事。
「今日はサッカーじゃなくて家の中で出来る事にしよう」
「騒がしくならない奴な」
どうせサッカーをしに表へ出ても集中できないだろう。真人は修也の意見に頷いた。
豪炎寺家へと戻るために玄関へぞろぞろと向かう。
真人はちらりと階上を見て、溜息を吐いた。
出来るならもう少し頼って欲しいものだ。
これだけ心配されるのが分かっていれば、確かに心配をかけたくないと思うの気持ちもわからないではないが。
「まさとー?」
「はいはい、今行く」
翌日、すっかり元気になったは夕香にも修也にもベッタリとくっつかれて身動きもままならなかったのは余談だ。
当然真人も「俺だっての事を心配したのだから」とベタベタくっついていたが。
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